数日後。
日が昇ってさほど経っていない朝、バイトは気分転換にクレーンポートの波止場で海を見ていた。
波打つ水面を見たところで、深海生まれのバイトにとってはこれが同じ海だとは思えないし、自分の姿が見られてしまう可能性がある明るい海は大嫌いだ。
しかし風に乗って運ばれてくる潮の香りは、どこか懐かしくて悪い気分はしない。
風向きが変わって顔にかかった髪をかきあげていると、バイトの耳は大勢の楽し気な声を捉えた。
「ん?」
声の方向を探るとレンガ倉庫の方から聞こえてくるので、興味が湧いたバイトが声の方へ足を運んでみると、レンガ倉庫の奥の方にある広場、ホイッスルパークに多くの人が集まっていた。
ホイッスルパークにはいくつか出店のような物があり、以前スレイドとここを見に来た時よりも賑やかで、いつもより活気付いている。
何があるか知る為に、バイトは近くで缶コーヒーを飲んでいる恰幅のいい中年男性に声を掛ける事にした。
「なあ、おじさん。随分いつもより賑やかだけど、ここ祭りかなにかやってるのか?」
「お、ナイトレイブンカレッジの学生さんか。兄ちゃんこれを見るのは初めてか?今ここでは朝市をやっているんだよ。港で揚がった新鮮な魚を売っているんだ」
「へえ、魚が売ってたのか」
「よかったらうちの店を見てってくれ。ちょうど俺も休憩から戻るところだったんだ」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
男性に促されて、バイトは彼の構えている店に行く事にした。
氷が一面に敷き詰められた箱の上に、光に反射した鱗を輝かせる魚達が並んでいる。
どの魚も色鮮やかで目も澄んでいて、素人目でも分かる程どれも新鮮な魚だ。
ラウンジで働いていてもここまで沢山の魚を一度に見た事がないバイトは、思わず感嘆の声を小さく漏らした。
「わあ……まだ新鮮そうないい匂いがするな」
「ははは!匂いで判断するとは面白い兄ちゃんだな。でも確かに新鮮さはどこにも負けちゃいねえよ」
「ああ、どれもうまそうだ。……あっ、こっちは水槽か?」
並んでいる魚を眺めていると、バイトはその横に置いてある大きな水槽に気が付いた。
水槽の縁には値札がついているので、これも売り物なのだろう。
中腰に屈んで中身を眺めてみると、水槽になみなみと入っている海水の中には、赤、銀、黒などの大小様々な魚達がイキイキと泳いでした。
「へえ、魚ってこんな風に泳いでたんだな」
「兄ちゃんは泳いでる魚を見るのは初めてかい?」
「でかい水槽越しなら見た事あるけど、この目でこんなに近くで見るのは初めてだ。……あっ、タコだ」
吸盤が並ぶ八本の足をうねらせて、水槽の隅の壁にへばりつくように、そのタコは水槽の一角を我が物顔で占領していた。
そのどこかふてぶてしくも感じるタコを見て、幼馴染の顔が浮かんだバイトは、自分の財布の中身を確認した。
「ヴっ……タコって高いんだな」
バイトの財布に入っていたお金は、水槽に書いてあるタコの値段に僅かに届いていなかった。
「……仕方ねえ、今回は諦めるか」
「どうした兄ちゃん。タコが欲しかったのかい?」
がっくり肩を落としたバイトに、店主の男が声を掛けた。
「ああ。こいつが欲しいなって思って財布を見てたんだけど、今日そんなに手持ちが無くて……ちょっとだけ金が足りなかったんだ。だから残念だけど今回は諦めるよ」
「ちょいと待ちな兄ちゃん」
踵を返して帰ろうとするバイトを、店主の男は手招きして引き止めた。
「なんだ?」
「俺の仕事を少し手伝ってくれたら好きな商品一つ譲ってもいいぜ」
「ほんとか!?」
「ああ。売れた魚の空き箱を片付けて、置き場に運ぶのを手伝ってくれたらな。どうだ?やるか?」
「やりたい!」
「よし!じゃあ決まりだな!そっちから中に回って来な」
店主からの誘いに飛びついたバイトは、招かれるまま店のバックヤードに入っていった。
「ありがとうな兄ちゃん、結局最後まで手伝ってくれてよ」
「いいって、簡単な仕事を手伝っただけだからさ」
あれからバイトは店主の指示を聞きながら、台車で何往復も移動して魚の空き箱を片付けていたが、途中で魚を買いに来た人が来て店が忙しくなってきたので、片付けのついでに会計や袋詰めなどの簡単な業務も手伝った。
「よし、約束の品はタコでよかったな。捌く事もできるけどどうする?」
「そうだな……あっ、おじさん。これ、生きたまま持って帰る事ってできるか?」
「ああ。海水と氷を一緒に入れるからちょっと重くなるけど、大丈夫か?」
「ああ、オレの友達にタコが大好物の奴がいるんだ。特に活きのいい奴が好きだから、生きたまま持って帰るよ」
「そうかそうか!じゃあちょっと待ってろよ」
店主の男はあらかじめ用意していた海水とタコを入れた袋と、ビニール製の白い買い物袋をバイトに手渡した。
「ほらよ、重いから気をつけてな」
「ああ、ありがとう。……あれ?おじさん、こっちの袋はなんだ?」
バイトは袋を受け取って礼を言ったが、貰った袋が二つある事に気づいて首を傾げた。
「頼んだ内容以上に働いてくれたからな、こっちはおまけだよ。こっちは傷物で売り物にならない魚だけど、美味い事には変わりないから一緒に持っていきな」
「わあ……!ありがとうおじさん、大事に食べるよ」
「友達にたらふく食わせてやれよ!」
「ああ!」
白い歯を見せて笑う店主の大きな声に、バイトも負けじと返事をして大きく手を振った。
「ただいま」
「おかえりバイト。散歩にしては長かったね」
ベッドに寝そべったまま、天井の模様を見つめてダラダラ過ごしていたスレイドは、顔だけ向けて散歩から帰って来たバイトを出迎えた。
「ああ、ちょっと寄り道してた。ほら、お土産だぜ」
「えっ、わっ。……動いてる?」
バイトから差し出された袋を身を起こして受け取ると、両手からひとりでに袋が動き出して落ちそうになったので、スレイドは慌てて袋を抱え直した。
動いている袋を困惑しながら開けてみると、中身を見てパアッと目を輝かせた。
「わあ……生きたタコ!!しかもマダコ!ずっとミズダコばかりだったから久しぶりに見た。これどうしたの?」
「麓の街のホイッスルパークで朝市をやってたんだ。金が足りなかったんだけど、そこでやってた店のおじさんの仕事を手伝って、そのお礼で譲って貰ったんだ」
「へえ、そんなのやってたんだ。ねえ。これ、食べていい?」
「ああ、いいぜ」
「やった。あ、そうだ。ちょっと試してみたい食べ方があるから、ラウンジに持っていこう」
そう言ってスレイドは袋の中で蠢くタコをほくほく顔で見下ろしながら、いそいそと部屋を後にした。

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