水分補給だけじゃ足りなかった

サブマス一話完結小説

 挑戦者が多い日でも、書類仕事は変わりなくやらないといけない。
クダリがダブルトレインで出ている間、ノボリはサブウェイマスター専用の執務室で一人、溜まっている書類を捌いていた。
内容を確認してからサインをして、判子を押して、作業としては単調ではあるが、これもサブウェイマスターの大事な仕事の一つだ。
事務室より更に奥まった場所にある執務室は、定刻通りに走る電車の音も遠く、お客様で賑わっている駅のホームとは反対で静かだ。
ノボリしかいない部屋では、クーラーの稼働する音と、紙の上を走るペンの音だけが聞こえていた。
  
「…………?」

 書類の山の三分の一を処理し終わった頃、ノボリは一旦手を止めて自分の左手を摩った。
先程からどうも手の先が冷たく、動かしにくい気がする。
作業をしている内に熱が入って、つい拳でも握り込んでしまっていたのだろうか。
左手を握っては離してを繰り返してみると、痛くは無いが、ほんの少し痺れているような感覚もある。
熱中症の初期症状の一つに、手先の痺れが発生する場合があるのを思い出したノボリは、机の端に置いていた飲みかけの麦茶のペットボトルに手を伸ばした。
 
「……まだ水分補給が足りていなかったのでしょうか?」

ノボリは首を傾げながら、再び麦茶のペットボトルに口をつけていると、入り口のドアからノックの音がした。
 
「黒ボス、シングルに挑戦者です」
「分かりました。すぐに向かいます」
 
 ドア越しに声を掛けるてつどういんに返事をしながら立ち上がろうとした瞬間、突然目の前が真っ暗になった。
高い所から落ちたような浮遊感に襲われ、全身から力が抜け落ちる。
大きな音でハッと我に返ると、ノボリは自分の机に寄りかかるような体勢になっていた。
どうやら無意識に机に両手をついていたので、ギリギリ床に倒れる事は回避できたらしい。
心なしか視界の端が白っぽくも、黒くも見えて、チカチカする気がする。
それが眩暈を誘発する位に気持ち悪くて、ノボリは思わず米神を押さえて目を閉じた。

「黒ボス?すごい音しましたけど、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。机に足をぶつけてしまっただけです、少々お待ちください」
 
 大きな物音は外で待っているてつどういんにも聞こえていたらしく、心配して声を掛けてきた部下に、ノボリは慌てて返事をした。
今までも連日の激務による睡眠不足でこうなった事がある、きっと今回もそういった類の不調だろう。
ノボリは一度何度か深呼吸をすると、眩暈が少し収まったタイミングで部屋を出て、外で待っていた部下を連れてトレインへ向かった。
 
このトレインのバトルが終わったら、クダリに頼んで少し休ませてもらいましょう。
多少の無理は慣れています、これくらいなら大丈夫です。
そう何度も頭の中で言い聞かせながら、ノボリはトレインへ乗り込んだ。

「ありがとうございました!」
「ご乗車ありがとうございました。またのご乗車、お待ちしております」
 
 バトルは無事に終わり、降車する挑戦者を見送っていたノボリは、挑戦者が見えなくなると無言で事務室へ向かった。
すれ違うお客様に脇目も振らず、目元が見えない程に帽子を深く被って目線を落とし、人気のない廊下まで足早に歩く。
何も考えず無心で足を動かして、ようやく誰もいない場所まで歩くと、ノボリは長い息を吐いて壁にもたれ掛かった。
痛みでクラクラする頭を壁に預け、肩を上下させながら、浅くて速い息を何度も繰り返す。
汗で身体に張り付いたシャツが気持ち悪い。
突き当りの壁がどんどん遠ざかっていくような錯覚を覚えながら、ノボリは像がはっきりと結ばれない霞んだ廊下をぼんやりと見つめていた。
 シングルトレインから降りたノボリは、いよいよ自分の体調の異変を無視できなくなっていた。
締め付けられるような頭の痛みと、ゆらゆらと揺さぶられて真っ直ぐ歩けず、油断すれば床に倒れ込んでしまいそうな程の眩暈。
そしてずっと感じていた喉の違和感は、バトルの途中で気持ち悪さと吐き気に変わっていた。
書類仕事をしていた間は麦茶をこまめに飲んでいたので、喉の渇きは感じていないし、お手洗いに立つ回数も心なしかいつもより多かったので、水分補給は足りていた筈だ。
それなのにどうしてと思いながら、ノボリは壁伝いに重たい足をひきずるようにして歩く。

 他のトレインの運行が定刻通りに動いているなら、今執務室にクダリがいるはず。
なのでノボリは事務室には戻らず、直接その奥にある執務室へ向かう事にした。
波の様にやってくる大きな眩暈に襲われる度に、途中で何度も立ち止まって短時間の休憩をとりながら、ようやく執務室のドアの前へ辿り着いた。
あとはドアを開けるだけで中に入れる筈なのに、ドアノブを握るだけで酷く体力を消耗している気がする。
ノボリは力を振り絞ってドアノブを捻ると、自分の体重を預けるようにして、ドアを開けた。

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