水分補給だけじゃ足りなかった

サブマス一話完結小説

「あ、おかえりなさいノボリ」

 執務室の椅子の背もたれにもたれ掛かって書類の最終チェックをしていたクダリは、ドアが開く音を聞いて、顔を上げて帰って来たノボリを出迎えようとした。
しかしドアに体重を預けたまま動かない兄を見て、すぐに異変に気が付いた。
目元が見えない程に俯き、肩で荒い呼吸を繰り返し、帽子でほとんど見えないが顔色も悪そうだ。
明らかに体調を崩している状態に、クダリは慌てて立ち上がってノボリに近づいた。
 
「ノボリ?どうしたの?」
「…………」

クダリがそっと声を掛けると、俯いていたノボリはゆっくりと顔を上げた。
クダリの顔を見た瞬間、ノボリはふ、と表情を和らげたかと思うと、彼の身体が大きく横に傾いだ。
 
「危ない!!」

 倒れそうになったノボリを咄嗟に受け止めると、その拍子に彼の帽子が落ちて床に転がった。
帽子が落ちたノボリの顔は真っ青で、額や首元から汗が噴き出ていた。
倒れ込んで来た身体はほとんど力が入っておらず、もうほとんど自力で立てていない。
こんな今にも倒れそうな状態でここまで戻って来たのかと気づくと、クダリは自分の心臓が縮む心地がした。

「ノボリ、ノボリ」

クダリはちゃんと声が届くように顔を近づけて名前を呼ぶと、しばらく薄っすら目を開けて宙を見つめていただけのノボリは、ゆっくりと弟に焦点を合わせた。
 
「ノボリ。ぼくクダリ、分かる?」
「……ク……ダリ」
「ノボリお顔真っ青、きっと熱中症。少し休もう。そこのソファまで頑張れる?」
「すみません……少し、休ませてもらってもいいですか」
「うん、ゆっくりでいいからね」

 今に倒れそうになっているノボリを、クダリは半ば抱えるように支えながら、彼を執務室の脇にあるソファへ座らせた。
仮眠にも使っているソファなので、一刻も早くノボリを横にして休ませてやりたかったが、熱が籠りやすい黒いコートを着ている状態では、彼の身体を蝕む熱は逃げてくれないだろう。
 黒いコートを脱がせて、ネクタイを外してシャツのボタンを二つほど外して首元を緩めてやる。
彼のコートは自分の物よりも遥かに熱く、思わず眉を歪めてしまいたくなる程に熱が籠っていた。
それを一旦ソファの背もたれに掛けると、次はノボリの背中と頭に手を添えてソファに横たわらせる。
そして最後に手袋と靴も外して、少しでも身体の熱を逃がしてやる。
クーラーの冷風で急激に全身の汗を冷やされて、ノボリは無意識に身体を強張らせた。

「ノボリ、どこが気持ち悪いとか言える?」
「頭が……痛くて……クラクラして……少し……吐き気も……」
「分かった。ノボリ、すぐ病院に行こう」

 ひじ掛けに頭を預けるノボリは、うっすらと目を開けたまま、荒い息の合間合間に掠れた言葉を必死に紡いでいた。
受け応えはまだできているが、眩暈もしている上に吐き気も感じているとなると、これから体調が悪化する可能性が高い。
ここでできる事は限られているので、すぐに病院へ運ぶ必要があると判断したクダリはそう伝えたが、ノボリは小さく首を振った。
 
「いえ……さすがに病院までは。……サブウェイマスターが、どちらもここを離れてしまうなど」

自分が大変な状態でもギアステーションの事を気にするノボリに、クダリは思わずカッとなって目を吊り上げた。
真面目で優しい所はノボリの良い所だが、それで自分を蔑ろにするのは許せなかった。
 
「それよりもノボリの方が大事!熱中症が悪化したらもっと大変、だからすぐに行かないとダメ!」
「……わかりました」

予想以上のクダリの剣幕に気圧されて、観念したノボリはぐったりと目を閉じた。
 
「飲み物ここに置いておくから、飲めそうだったら少しずつ飲んで。ぼく準備してくるから、待ってて」
「はい……」
 
 クダリはスポーツドリンクを近くのテーブルに置くと、執務室の外へ駆け出した。
しばらくソファに横たわって安静にしていたが、クダリが用意してくれた飲み物を飲もうと、ノボリは肘を使って少しだけ身を起こした。
全身から異常を訴えてくるこの身体はまるで自分の物じゃないみたいで、身体を起こすだけで一苦労だ。
ようやくソファに腰かけた状態になると、震える手を伸ばしてボトルを手に取った。
キャップを開けようとすると、少し力を入れただけですぐに開いた。
どうやらクダリがノボリの為に、あらかじめキャップを緩めてくれていたらしい。
そんな気遣いにありがたく思いながら、ノボリはこれで少しは症状がマシになればいいと、半ば祈りながらドリンクに口をつけた。
 
しかしそんな彼の思いは、すぐに打ち砕かれる事になる。
 


「……うっ……ぐ……」

 ドリンクを飲んでから数十秒後。
ノボリは急に襲ってきた不快感に、咄嗟に口元を両手で押さえて蹲った。
手に持っていたドリンクのボトルは、口元を押さえるのに必死なノボリの手からすり抜けて、音を立てて床に転がってしまう。
中身が溢れてじわじわ広がっていく水たまりは、剥き出しになったノボリの靴下をじわじわと濡らしたが、今はそれどころではなかった。
 ノボリを襲ったのは、ぐるぐると身体の奥から喉までせり上がって来るような、先程まで感じていたものよりも更に酷い吐き気。
今にも決壊してしまいそうで、ノボリは小さな呻き声を漏らしながら、口元を押さえる力を強くして更に身体を丸める。
両手の隙間から短く浅い息を繰り返し、必死に吐き気を堪えながら、ノボリはこの部屋にあるゴミ箱に目を向けた。

 ゴミ箱はクダリの机の隣にあって、ここから数メートル先にある。
立って歩くなら数秒もかからない距離だが、今はとても立てそうにない。
ノボリは服が汚れるのも構わず、ソファから床に転げ落ちると、込み上げてくる何かを何度も飲み下しながら、這うように進んでゴミ箱に手を伸ばした。

「……は……は……んぅ……っぐ……!」

ゴミ箱を手繰り寄せるのに成功して、ほんの少しだけ気が緩んだのだろう。
ゾクリと背中やら腹やらが大きく波打ち、一気に喉の方へ逆流してくる感覚に、ノボリは顔をゴミ箱の中へ突っ込んだ。

「う……うぇえ゛えっ……っ、ゴホッゴホッ……」

 液状の吐瀉物がプラスチックのゴミ箱の底をパシャパシャと叩く。
昼食はバトル業務が忙しくて時間が確保できなかったからまだ食べておらず、朝食もあまり食欲がなかったのでほとんど食べなかったので、ノボリの口から出てきたのは、先程飲んだスポーツドリンクやその前に飲んだ麦茶を中心とした液体ばかりだ。
一度顔を上げようとしたが、飲み物に混じった胃液の匂いと、ゴミ箱の中の破棄した書類に書かれた細かい文字列がたまたま目に入ってしまって、また気持ち悪くなったノボリは、もう一度顔をゴミ箱の中に戻した。
  
「……うぐ、ごほっ……ゲホッ、ゴホッ……」

 何度も咳き込んで、生理的な涙が滲んでくる。
大きな咳を繰り返した衝撃で、胸や背中に軋んだような痛みが走り、中々息が整わない苦しさに喘ぐ。
暗くなってきた視界に、いっそこのまま意識を手放してしまおうかと考えていたら、遠くから慌ただしい足音が聞こえて来た。

「ノボリ!救急車呼んだらすぐに来てくれる、って……あれ!?」
「……っ、ぐふっ……」
「あっ、ノボリ!?」
 
 部屋に戻って来たクダリは、空になったソファと床に転がった中身が溢れたペットボトルを見て、ノボリがいない事に困惑した。
あんな酷い状態で一体どこに行ったのかと辺りを見渡すと、クダリの机の方から小さな呻き声と咳き込む声が聞こえてきて、慌てて声の方へ回り込んだ。
服が汚れるにも関わらず、四つん這いに近い状態でゴミ箱を抱え、苦し気に吐いているノボリがいた。
ソファの影に隠れてしまって、ほとんど見えなかったのだ。
 
「ノボリ、吐いちゃったの?」
「う……クダリ……」
「うん。……苦しいね、辛いね、気持ち悪いの全部出しちゃおう。大丈夫、焦らなくていいよ」
「う……うえぇ……」
 
 クダリが駆け寄ってノボリの背中を擦ってやると、それが呼び水になったのか、ノボリは再び嘔吐き、大分少なくなった吐瀉物を吐き出した。
嘔吐反射が起こる度に跳ねる背中を宥めるように、クダリは彼の丸くなっている背中を優しく摩って、少しでも苦痛が取れればいいと思いながら、ノボリに励ましの言葉を掛け続けた。
 
「うぅ……ケホっ……ケホ、ケホ。……い」

何度も苦しい嘔吐を繰り返してようやく少し落ち着いたのか、ノボリは何度か咳き込んだ後、小さく口を動かして何かを呟いた。
 
「え。……何?ノボリ、なんて言ったの?」
「……寒い」
「寒い?」
「それに……なんだか……暗い、です」
「暗いの?……あっ!」

 それだけ呟くと身体の支えにしていた肘からも力が抜け、ノボリは床に崩れ落ちそうになった。
クダリは咄嗟に彼の肩を支えてから、彼の胃を刺激しないように気を付けながら身体を起こして横抱きの状態にした。
辛そうに息を繰り返すノボリの顔色は紙の様に白く、どこか分からない宙を見つめる目は、虚ろになって焦点がブレている。
 彼の状態を更に詳しく把握する為に、クダリはノボリを支えている手と反対の手の手袋を口で外して、ノボリの額や首元を触ってみた。
汗が滲む額と首元は、冷風に晒されたギギギアルの様に冷たく、太い血管がある場所に指を当てて脈を測ってみると、トクトクといつもよりずっと早く鼓動と刻んでいる。
 
……これはいよいよまずいかもしれない。
 
 明らかにさっきより悪化しているノボリの体調に、クダリの心の中では焦りが募った。
彼の身体が震えている事に気づいたクダリは、自分のコートを器用に片腕で脱いでノボリに被せると、彼の腕や背中などを摩って温めてやりながら、こちらに向かっている筈の救急車を今か今かと待った。
 
「クダリ……」
「何?ノボリ」
「クダリ……クダ……リ……」
「うん、ここにいるよ」
 
ノボリは虚ろな目で譫言のようにクダリを呼んで、不自然に震えている手で、ふらふらと何かを探すように片手を彷徨わせる。
クダリがその手をしっかりと捕まえて笑いかけると、ノボリは安心したみたいにそっと息を吐いた。
  
「…………」 

なんとか重たげに持ち上げられていた瞼が、とうとうその重さに耐えかねて、ゆっくりと閉じられていく。
 
「待って、目閉じないで!ノボリ、ノボリ!!」

 完全に意識を失って脱力した身体の重さが、クダリの両腕にずっしりと伝わった。
首の筋肉の支えを失った無防備な状態で、重力に従ってダランと横向きに垂れた頭にゾッとして、クダリは必死に何度もノボリの名前を呼び続けたが、救急車が来て病院に搬送されても、彼が目を開ける事はなかった。 

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