「連れてきてくれてありがとう、ヒカリ」
「ううん、あたしもお別れをちゃんと言いたかったから」
数週間後、ついに元の世界へ帰る日となった晴れた早朝。
コウキはヒカリに頼んで放牧場に連れてきてもらっていた。
ヒカリが捕まえてここで暮らしていたポケモン達は、彼女がこれからどうするか放牧場のポケモン達一匹一匹と話をして、村の人の手伝いとして信頼できる人に引き取ってもらったり、野生へ逃してあげたりして、今はほとんどいなくなっている。
その中に、柵の近くで一際大きなポケモンが佇んでいた。
それは本体のアルセウスがヒカリに託した、分身のアルセウス。
コウキが本体のアルセウスを見た時に感じたプレッシャーは、分身には感じられなくて、まだ何者にも染まっていない無垢な印象を受けた。
このアルセウスも、数日前にヒカリとこれからどうするか話していて、アルセウスはこの地に残って、コトブキムラの人々の手伝いをする事を選んでいる。
二人がアルセウスに近づくと、二人に気付いたアルセウスも、自分から近づいて来てくれた。
「アルセウス」
コウキが声を掛けると、アルセウスはコウキに目を向けた。
「キミとは初めましてだよね。ボクはコウキ。……この笛、きみがヒカリの部屋に送ってくれたんだよね」
コウキは分身のアルセウスに、シンオウ地方から持って来た笛を見せた。
アルセウスはコウキの手の中の笛を、見知ったものを見るような、でもどこか不思議そうな表情で、ただ何も言わずに笛に目を落としていた。
「この笛のおかげで、ボク達は本体のアルセウスに会えた。ヒカリとノボリさんの元に辿り着けた。……ありがとう、アルセウス」
「アルセウス、あたしからもお礼を言わせて」
ヒカリも一歩前に踏み出して、アルセウスに声を掛けた。
「この笛をあたしの部屋に送ってくれたの。ここであたしが帰りたいって話したからだよね。……本当に、ありがとう」
話している内に滲んできた涙を誤魔化すように、ヒカリはアルセウスの首元に抱き着いた。
「……離れていても。ずっと、元気でね。アルセウス」
しばらくそうしてヒカリがアルセウスの首から手を離すと、アルセウスは少しだけ首を伸ばして、コウキの手にある笛に鼻先を寄せた。
「これ、吹いて欲しいの?」
手記に書いてあった、『笛の音が好き』という言葉を思い出してコウキが問いかけると、アルセウスは小さく頷いて、次にヒカリの腰にあるポーチにも顔を寄せた。
「あたしも?」
ヒカリもポーチから笛を出して見せると、アルセウスはもう一度頷く。
コウキとヒカリは顔を見合わせると、同時に笛を構えて吹き口を咥え、大きく息を吸った。
感謝の気持ちと、お別れの気持ちを込めて、二つの笛から響く旋律は、偶然にも同じもの。
遠くまで響くその二重奏を聞きながら、分身のアルセウスは嬉しそうに笑った。
「お待たせしました!」
「ノボリさーん!クダリさーん!」
アルセウスと別れてコトブキムラを出た二人は、村から出てすぐにある岩に並んで座り、二人を待っていたノボリとクダリと合流した。
クダリの隣には、いつも通りシャンデラも一緒だ。
「おはようございます、クダリさん。昨日ちゃんと眠れましたか?」
コウキからの問いかけに、クダリは穏やかな微笑みを浮かべて小さく頷いた。
あのポケモンバトルの後、ノボリの腕の中で気を失ったクダリは、つい最近までノボリの家で臥せっていたので、今の彼は病み上がりだ。
少々窶れてはいるが、顔色は良さそうなクダリの顔を見て、起きた時から彼の体調を案じていたコウキは、安堵から小さく息を吐いた。
「あっ、ノボリさんはちゃんと寝ませんでしたね?」
「申し訳ありません……しかし寝る前に、どうしても指南書に書き加えたい戦法を思いつきまして。あれを書き残さない限りは悔やんでも悔やみきれず……」
「もう!昨日はちゃんと寝てくださいって言ったのに」
対してノボリの目の下の隈を見て、ヒカリは頬を膨らませてプリプリ怒りはじめた。
昨日ヒカリが前もって念押ししておいたというのに、ノボリはそれを聞き入れなかったらしい。
怒られる事をした自覚があるノボリは、歯切れの悪い言い訳をしながら、気まずそうにヒカリから目を逸らして帽子の鍔を下げた。
元の世界に帰ると決めたノボリには一つ、ある心残りがあった。
それはこの世界でポケモン勝負を広めるという事。
突然ヒスイ地方に飛ばされ、記憶を失い、この世界で何をするべきか。
それをずっと探し続けていたノボリが、この世界でようやくみつけた強い願いでもあった。
その思いからノボリが訓練場で始めた事は、現状まだまだ発展途上。
ノボリがこの世界を去る事で、広がり始めたポケモン勝負の輪が廃れ、途絶えてしまう事だけはなんとしても阻止したかった。
そこでノボリは、自分が所属しているシンジュ団の長であるカイに頭を下げ、元の世界に帰る為にシンジュ団を抜ける旨を伝えて、キャプテンの証である腕輪を返上すると、この土地の人達の為にポケモン勝負の指南書を作る事にした。
ポケモン図鑑とは違う視点でポケモンへの理解を深め、この世界でポケモン勝負の文化を更に広める一助になればと考えたのだ。
ヒカリが捕まえたポケモン達の行く末を決めていく間、ノボリは自宅に籠ってクダリの看病をする傍ら、指南書作成に注力し、起き上がれる程度まで回復したクダリも、双子の兄の心残りを払拭するべく彼に協力した。
しかし熱中するあまり寝食を疎かにしてしまい、真っ青な顔でフラフラになりながら、目だけをギラつかせて手を動かし続ける二人に、様子を見に来たヒカリをコウキは激怒した。
シャンデラと連携して、二人で彼らを机から無理矢理引き剥がしてご飯を食べさせ、そのまま布団に叩き込んだのは記憶に新しい。
この事についてはシャンデラも怒っていたので、現に今、クダリの隣で浮いているシャンデラにノボリが助けを求めるように視線を向けても、シャンデラはつれなくそっぽを向くだけだった。
「それで、ちゃんとノボリさんが納得できる指南書は出来ましたか?」
「はい!完成した指南書はペリーラさまに託してきました!それはもう、渾身の出来でございます!!」
「ならばよろしい!……よかったです!」
胸の前で拳を作って自信満々な様子のノボリの顔を見て、ヒカリは後ろに手を組んで、わざとらしくツンとした表情を作ると、すぐに一転させてニッコリと笑った。
「じゃあ、行きましょうか。あたしとコウキくんが前を歩きますね!」
「歩くのが速かったら言ってくださいね」
野生ポケモンからの襲撃に備え、ヒカリとコウキが前を歩き始めると、ノボリは移動を始める前に、今一度ここから見えるコトブキムラの景色を眺めた。
青い空の下、目を覚ました村人達が朝支度を始めるこの時間帯は、世話をしていたオオニューラに会いに行く為に、ノボリが天冠山を登り始める時間と同じだった。
朝日の柔らかい日差しを浴びて、立ち並ぶ家屋の屋根瓦の輪郭が鈍く光り、どこかで食事の用意の為に火を炊いているのか、遠くの家の煙突からは煙が立ち上っている。
風に乗って飛んでくる何かの料理の匂いと、朝の挨拶を交わす人々の話し声。
もう二度と見られないだろう、自分にとって当たり前になっていた日常風景が、いつも通りそこに広がっていた。
ノボリはその景色を目に焼き付けてから、シャッターを切るかのように目を閉じ、数秒かけてゆっくり目を開いてからクダリに手を差し伸べた。
「我々も行きましょうか、クダリ」
「ん」
クダリはノボリの肩を借りて、後ろから腰を支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
彼の右足は骨折した怪我人みたく、足の裏と膝から下の側面に添木をして、その上を布でぐるぐる巻きにされている。
壊れた下肢装具は直せなかったので、代わりにこの数枚の木の板がクダリの足を支えていた。
ノボリはこの山道でクダリが転ばないように、いつもよりもずっと小さい歩幅で、ゆっくりと山道を歩き始めた。
肩や腕にかかる大切な片割れの重さを感じながら、ここへの未練を完全に断ち切るように、ノボリは一度も後ろを振り返らなかった。
そうやってただ前を見て歩いていると、ふと前を歩く二人から、楽し気な話し声が聞こえて来た。
元の世界に帰ったら何をしたいか。
詳しい内容は聞き取れないが、どうやら前を歩く二人はそういった話をしているらしく、身振りも交えて会話するヒカリとコウキの顔は明るい。
そんな子供達の背中がどこか眩しくて、ノボリは少しだけ目を細めてゆっくりと口を開いた。
「……帰ったらまず、ギアステーションに行って皆さんに帰還の報告をしなければなりませんね」
「そう、らね」
「クダリは帰ったら、何がしたいですか?」
「ノぉリと、マぅチ、トぇイン」
クダリからの迷い無い答えに、ノボリが思わず顔を向けると、彼は吐息を漏らすように柔らかく笑った。
「ぃア、ステー、ションの、ぃんなと、やくそく、してぅ」
「ブラボーですクダリ。サプライズで乗り込んで皆さんを驚かせましょう」
「ふふふ……うん」
その日。
シンオウ神殿から再び眩い光が観測されたと同時に、四人の異邦人達は姿を消し、再びヒスイの土を踏む事はなかった。

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