午後の授業が始まる五分前。
ナイトレイブンカレッジの実験室では、実験着姿のニ年E組の生徒達が、魔法薬学の授業の為に集まっていた。
魔法薬学の授業は、本来植物園の近くにある魔法薬学室で行われるが、今回作る薬品は特殊な方法で作るらしく、生徒達はいつもと違う場所に集まるように指示されていた。
更に言うなら、今回の授業は午後の授業時間全部を使う特別授業だ。
このクラスのメンバーである、ハーツラビュル寮長リドル・ローズハートは、寮の用事でいつもより少し遅れて実験室に入ると、いつもと違う光景に目を見開いた。
「こ……これは、海で使われる大釜じゃないか!」
いつも部屋の中央に置かれている金属製の大釜は、リドルの胸の高さ位まである大きな黒い岩に変わっていた。
その形は近づいてよく見てみれば、固く閉じた蕾の様にも見える。
リドルにとって本の中でしか存在を知らなかった、海で魔法薬の調合に使われている大釜が鎮座していた。
「リドルさんは、海で使われる大釜を見るのは初めてですか?」
後ろからの声に振り返ると、珊瑚の海出身のウツボの人魚、オクタヴィネル寮のジェイド・リーチが立っていた。
音もなく背後に立たれていて内心驚きはしたものの、ここで過剰に反応すると、かえって面白がってしまうのがジェイドという男なので、あくまでなんとも思わなかったという顔で、リドルは彼に向き直った。
「ジェイド。……海の魔法薬の文献で一度写真を見た事はあったけど、実物を見るのは初めてだよ。こうして見ると本当に岩みたいなんだね」
「そうですね。海では金属で作られた物はほとんどありませんから、魔法薬の調合に使う物は、こうして大きな生き物の骨や貝殻、岩を削りだしたものを利用して作られた物が多いんです」
「なるほど。確かにただの金属の大釜じゃ、海水の中ですぐにボロボロになってしまうだろうからね。それにしても、クルーウェル先生がわざわざこんな物を用意するという事は、今日は海でしか作られない魔法薬でも作るのだろうか?」
「仔犬共、全員揃っているな」
「ごきげんよう!みなさん」
「学園長?どうしてここに?」
この授業を担うデイヴィス・クルーウェルが、何故か学園長のディア・クロウリーを連れて、実験室に入って来た。
普段授業の途中に、どこからともなく勝手に教室に入って来ては、勝手に去って行くクロウリーが、授業の始まりにクルーウェルと共にちゃんと入口から入って来る光景が珍しくて、思わずリドルが理由を尋ねた。
「今回の魔法薬を作る為には、この実験室に大掛かりな魔法を掛ける必要がある。俺が仔犬共の監督に集中する為に、学園長にはその魔法をお任せする予定だ」
「可愛い生徒達の為に私、優しいでしょう?今日は一肌脱いじゃいますよ」
クルーウェルがクロウリーを連れて来た理由を答えていると、クロウリーは胡散臭い笑顔で、アピールをするように自分を指さした。
これみよがしの態度を見せるクロウリーに、リドルを含め2年E組の生徒達は、やや冷めた目で一瞥するだけで何も返さない。
まあ、これはいつもの事である。
クルーウェルも、クロウリーの事は一旦スルーして、今日の授業の内容の説明を始めた。
「今日は簡易的な膜を作る為の塗り薬を作ってもらう。元々水掻きや鰭を負傷した人魚が、傷の保護の為に使う物だが、今では人間の泳ぎの練習にも使われている塗り薬だ。子供の頃にスイミングスクールに通った事がある仔犬なら、見覚えがあるだろう」
そう言いながらクルーウェルは、コートのポケットから拳くらいの大きさの、四角い茶色のガラス瓶を近くの机に置いた。
彼の言った通り見覚えのある者は多いらしく、そのガラス瓶を見た生徒の内の何人かは小さく頷いている。
対して陸よりもその薬に馴染みがある筈のジェイドは、口元に手を当てたまま一人、やや困惑した表情を浮かべていた。
「傷の保護に使う薬を、陸の人間は泳ぎの練習に?……あまりイメージが湧きませんね」
「泳ぐ時に水を捉えるイメージを掴みやすくする為に、あれを手の指の間に塗って、簡易的な膜を作るんだ。ボクも小さい時に行った短期のスイミングスクールで、泳ぎに慣れるまで使っていたよ」
「……なるほど、あれで疑似的な水掻きを作るのですか。ありがとうございます、リドルさん」
ジェイドがあまりピンときていない様子だったので、リドルが陸の場合の薬の用途を小声で補足すると、それで合点がいったジェイドは、スッキリした顔で彼に礼を言った。
「この魔法薬は海中で作られるのが一般的だ。その為に、今日お前達には学園長が魔法で作る海中空間で、海で作る方法と同じやり方でこの魔法薬を作ってもらうぞ」
クルーウェルに「海で作る方法と同じ」と言われて、それを聞いた生徒達からは、困惑の反応がさざ波の様に広がり始める。
その中でリドルは、クルーウェルに質問をする為に「先生」と、手を挙げた。
「どうした?ローズハート」
「陸と海では、調合方法が大きく異なると聞いた事があります。事前に話も聞いていなかったので、海の魔法薬の調合方法の予習も不十分です。そんな状態でいきなり調合にあたるのは危険ではないでしょうか?」
「大丈夫だ。この魔法薬は、海のエレメンタリースクールに通う人魚の子供なら、誰でも習って作れるレベルの簡単な物だ。どんなバッドボーイがとんでもない失敗をしても、危険な事にはならない」
そう言いながら、クルーウェルは魔法を使って用意していた紙を生徒に配り始めた。
リドルも自分の元に飛んできた紙を受け取って中身を見ると、そこには魔法薬の調合方法が書かれている。
その内容は彼が言った通り、二年生が普段学ぶ魔法薬よりもずっと簡単な工程で作られるらしく、書かれている材料も危険物らしき物は一つも入っていなかった。
「他に質問がある奴はいないか?……いないなら始めるぞ。では学園長、お願いします」
「分かりました。……それっ!!」
クロウリーが持っていた杖を振り上げると、実験室はたちまちの内に海水で満たされ、部屋の中にいた者達は水中特有の浮遊感に包まれていく。
顔に水が掛かった辺りから、生徒達は慌てて口元を押さえたり、泳ごうとしたり高い所にしがみつこうとしていたが、いつまでも息苦しさがやってこないのと、海水で目が滲みない事に、いつしか全員不思議そうに近くの生徒同士で顔を見合わせた。
「溺れるっ!……あ、あれ?」
「息が……できる?」
「ふふふ、すごいでしょう?魔法で大事なのはイマジネーションですから、こんな事もできちゃうんですよ」
実際は高難易度の魔法を同時に展開しているのだが、クロウリーはその大変さを一切顔に出さず、生徒達へのイタズラが成功したみたいに、ニッコリと笑った。
「よし。水中に慣れた仔犬共から、これを取りに来い。中に全ての材料が入っている。材料を入れるタイミングまで中を開けるなよ」
調合を始める為に、クルーウェルは人間の頭くらいの大きさのシャコガイを生徒に渡し始めた。
最後の方でジェイドも材料を受け取ろうと、シャコガイに手を伸ばしたが、クルーウェルに手で制された。
「リーチ、お前は他の生徒の調合が一通り終わるまで待機だ。……後で調合の手本が必要になるだろうからな」
「……そうですね。分かりました」
そう言ってクルーウェルが教師とは思えないほど、悪い笑みを浮かべる。
意図を理解したジェイドも、同じくニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、彼の隣に立ってこれから始まる『面白い事』の高みの見物を始める事にした。

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